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“家守”が支えた長屋暮らし。江戸時代、大家は憧れの職業だった!

“家守”が支えた長屋暮らし。江戸時代、大家は憧れの職業だった!

 江戸の大家業に興味を持ちました。長年、賃貸住宅業界を取材してきましたが、大家業がどのような歴史の変遷をたどったのか知りたいと思ったからです。
 調べていくと、今に通じる事柄が多いことに気がつきました。長屋に暮らす人々と大家さんとの交流、九尺二間(※間口約2.7m×奥行約3.6m)での慎ましい暮らし、そこから醸し出されるほのぼのとした幸せ。不便や理不尽さもあっただろうけど、江戸長屋には、人間の正直な営みがありました。
 そしてそれらを知ると、だんだんと自分の気持ちが穏やかになっていくのを感じるのです。

(編集者 吉松こころ)

みんなが微笑んで暮らす町

 トロイア遺跡発掘で知られるシュリーマンは、その発掘の6年前、幕末の江戸を訪れています。彼はそこで目にした光景を、『シュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫)において次のように記しています。

 〈…この国には、平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にも増してよく耕された土地が見られる。〉
 〈日本人の住宅はおしなべて清潔さのお手本になるだろう。〉

 彼が訪れた慶応元年(1865年)の江戸では、行き交う人々が皆幸福そうに微笑み、肩を寄せ合い暮らしていたことが綴られています。

 なぜ、このように世界のお手本となるような清潔な家や街が、江戸の時代に形成されたのでしょうか。

 「理由の一つに、実は、大家さんの存在が挙げられます」と語るのは、30年以上江戸東京の街づくりを研究する小藤田正夫さんです。

▲小藤田正夫さん

 「大家、といっても、現代の大家とは少し意味合いが違います。江戸時代の大家とは、別名、『家守(やもり)』、『家主(いえぬし)』と呼ばれ、長屋の持ち主である地主から経営を委託された地主代理人のことを指しました」(小藤田さん)

 大家は今で言う賃貸管理会社に近い存在でありながら、町運営全般の担い手でもあったと言えます。ここでは、わかりやすく「家守」で統一したいと思います。

助け合って生きる

 江戸市中を表す言葉に「八百八町」があります。実際には江戸後期、その2倍の1600を超える町があり、江戸では百万人を超える人々が暮らしていました。これは当時のロンドンやパリ、北京よりも多く、世界一の規模だったと言われています。

 町は地域の単位として存在し、その自治は、南北にある町奉行所を筆頭に、町年寄、名主、そしてその下にいる地主や家守たちによって支えられていました(表1)。幕末期、家守は2万人ほどいて、実に50万人いた江戸町人の25人に1人が家守だったことがわかります。

 当時、お上(幕府)に対して、住民税や固定資産税のような税金を納める仕組みはなく、一つひとつの町の自治は、そこに住む地主が担いました。今の言葉で言えば、自助であり共助です。助け合いは江戸に暮らす人々にとって基本中の基本の姿勢でした。そうした地域自治の取りまとめをするのが地主ですが、地主は近くに住んでいないことも多く(不在地主)、代理人として家守が活躍しました。

 しばしば落語に登場する熊さん、八っつぁんのような町民たちが暮らす長屋。その同じ長屋で共に暮らす家守にとって店子(入居者)は子も同然。家族と疎遠になっている者がいれば身の上話を聞き、病に伏せる者がいれば薬を飲ませ、奉行所に出頭する者がいればその付き添いをしました。ただ単に店子から店賃(家賃)を集金して、地主に渡すだけにとどまらず、店子たちの暮らし全般の世話をする存在だったのです。

連帯責任を負う地主

 家守を雇用する地主はというと、土地を持ち、その土地の上で九尺二間の長屋を経営する特権階級です。お上から市民権を認められ、苗字帯刀が許されることもありました。これは当時最高の名誉とされました。だからこそ地主には町の自治のために負うべき、三つの負担金がありました。それが「上下水、火事、祭事」の三つに関わる経費です。これらは、「地主の三厄」と呼ばれ、自治の運営に直接関われるというステータスの表れでもあったのです。いわば地主は、地方公務員あるいはその首長に相当するほどの立場だったと言えるのです。  だからこそ、万一、管轄エリア内で犯罪が起きれば地主が連帯責任を負うのが江戸のしきたりでした。当時、地主は地域に対し、「無限」に責任を負うという普通の倫理があり、地主の代理人である家守にも高い倫理観と統率力が求められました。

 町の治安維持のため、家守は月交代で、町の入り口を守る夜勤警備の役目も負いました。家守は365日、24時間体制の仕事だったのです。

 このように、江戸の自治は家守たちにより守られてきました。明治2年(1869年)、江戸から改称された東京では、町奉行所が廃止され、それを機に江戸幕府支配下にあった名主、家守の地位も喪失しました。それまで家守が担ってきた役割は、政府が担っていくこととなったのです。

 実はこの時、江戸中の家守たちが飢饉や災害に備えて寛政の改革以降積み立ててきた基金があり、これはそっくりそのまま明治政府に引き渡されました。明治政府は、この基金でガス灯や青山墓地、養老院などを整備しました。

 かつて、「極東のエデン」と言われた江戸の町。265年もの間、守られた泰平の世は、家守たちの尽力によって築き上げられたと言えるでしょう。

▲神田三河町四丁目三井家屋敷図(出展:『江戸住宅事情』1990東京都)

びっくり江戸豆知識①

店中の尻で大家は餅をつき

 大きな責任を担った家守だが、その給金は、驚くほど安かった。

 現在の価値にすると、年俸で高くて130万円程度。到底、家守業一本では食えないため、家守は様々な副業をすることになる。その一つが糞尿の販売だった。

 その土地で生み出され、かつ銭に変えられるものと言えば、住民から出る排泄物。家守は、長屋で出た糞尿を汲み取り、近隣の農家に売ることで収入を得た。家守としての給金の4分の1に相当する額をこれで稼いだという。

 こうした活動は明治に入って、化学肥料が登場し、糞尿が廃棄物になるまで続いた。

びっくり江戸豆知識②

「コケンに関わる」の語源は?

 名主は、支配地内を構成する土地の地割形状や寸法、売買金額、地主や家守の名前などが記載されている、今の不動産登記簿に当たる「沽券図(こけんず)」を保管していた。

 土地を買い、地主になりたいという者がいれば、その町の全地主の同意が必要で、たとえ大金を積んでも、怪しい者であれば許可されることはなかった。というのも、万一犯罪が起きれば全地主が連座して責任を負ったからである。

 「コケンに関わる」という言葉はここから生まれたそうだ。

▲通四丁目(現・日本橋三丁目)沽券図(出展:東京都立図書館所蔵『江戸沽券図』)

監修:江戸歴史研究家 小藤田正夫さん
取材・執筆:株式会社Hello News

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